~乳がんからの日々~HBOC(遺伝性乳がん卵巣がん症候群)

2020年8月 HBOC(遺伝性乳がん卵巣がん症候群)が原因の乳がんと診断。同9月右乳房全摘+同時再建。同11月左乳房予防切除+同時再建、及び卵巣・卵管・子宮全摘。現在ホルモン療法中。まだまだ世に知られていないHBOCを読者の方々と情報共有できるよう、また自身の備忘録も兼ねてブログを始めます。

手術当日②

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11月11日(水)

術後7日目、今日は手術後HCU(ハイケアユニット)で過ごした一夜のことを記憶の限り綴っていきたいと思います。

 

昨日の記事にもチラッと書きましたが、この夜はまさに地獄のような一夜でした。

 

「Kさん!Kさん! 手術終わりましたよ。今5時半ですよ。ご主人もいらっしゃいますよ!」

この声で麻酔から目覚めました。

 

場所は多分HCUの個室へ入る直前だったかと思います。

 

と同時にものすごく激しい悪寒!

寝ているベッドを揺らすほど体が大きく震え始めました。

 

子供の頃から年中扁桃腺を腫らしては高熱を出していました。

39℃を超えるような発熱は30代後半まで続きました。

なのでこれまで何度も悪寒は経験済みです。

 

けれどこの度の悪寒と震えは次元が違いました。

あまりにも辛く苦しく、「このまま殺してほしい…」そう思ったほど。

 

ほどなく、男性看護師が大きな声で「35度5分です!」

ドクターらしき声で「毛布ではあかん!」

「風送って!風!」

 

そんなやり取りが朦朧とした意識の中に飛び込んでくる。

 

どのくらい時間が経ったのか・・・

やがて激しい悪寒と震えは収まり、少し眠りに落ちたようでした。

 

ナースが「Kさん、今7時です。痛み止めの点滴いれましょうか?」

と言うのでお願いしました。

このHCU個室のナースの方はとてもお優しくて、「何かあったら何でも言ってください。」「しんどかったら体の向きも変えるので言ってくださいね」そう言って点滴を追加して部屋を出ていきました。

 

痛み止めの点滴で少しうとうとした頃、男性看護師と何人かのスタッフが部屋に来て

「Kさん、お願いがあるんです」

「今救急に高熱の患者さんが運ばれてきていて入院が必要なのですが、このコロナ禍の関係で他の人たちと一緒にすることが出来ず、お部屋を変わってもらえないでしょうか?」

 

ぼんやりとした意識の中コクンと頷き、ほどなくしてどこか別の部屋へ運ばれて行きました。

 

そこは隣のベッドとは壁で仕切られているものの廊下側はオープンでカーテンで仕切られているだけ。

そのため周りの音がダイレクトに耳に入ってきます。

 

「ピーッ、ピーッ!」「ポーワー、ポーワー!」「ブーッ!」

どの音も甲高く、しかも大音量!

加えて患者さんの淡を出そうとする大きな咳き込み。

高齢患者に声掛けするときのナースの大声。

 

うとうとしかけてはこの音と声に現実に戻される。

 

傷の痛みに加えて腰と背中もめちゃくちゃ痛い!

 

体を少し浮かしたくて腕を動かそうとしても1㎝たりとも動かない。

 

そして身の置き所の無い強い倦怠感!

 

もうそこは地獄でしかありませんでした。

 

再び強い痛みが襲ってきて痛み止めをお願いするも、「Kさん、さっき点滴終わったところなのでね」と冷たい声で言われ、時間が過ぎていないことを知る。

 

しばらくしてナースが戻ってきて「K先生に確認したところ2種類の痛み止めを交互に3時間おきに使っても良いとのことなので、痛み止めの追加をします」

 

痛み止めの点滴を入れてもらってしばらくして少しうとうとしかけても、例の電子音、淡を出す音、看護師の声がそれを妨げる。

 

この地獄のような状態から抜け出すには朝を待つほかない。

これまでの経験で一夜が明けるとかなり苦しみから解放されることを経験上知っていたから。

 

何時頃だろうか、少し腕を動かせるようになりほんの少し体を浮かせることができた。

でも一瞬!

 

ナースが来たとき時間を聞いてみた。

 

夜の1時です。

 

その言葉を聞いて心の底から絶望した。

 

まだ1時。

大声を出してこの部屋から出してほしかった。

発狂しそうだった。

このまま殺してほしいとも思った。

 

実際他のベッドで発狂したような声を発している患者がいた。

 

「すみません、限界なんです」弱弱しい声で訴えると「眠る薬をいれますか?」

それをお願いしたもののやはり騒々しい部屋の音と雰囲気で、結局明け方まで眠れなかった。

 

痛み止めは2回でやめた。

入れると胸を押されるような息苦しさを感じ怖くなったからだ。

口の酸素マスクも早々に外されていた。

 

長い夜、こんなことを考えた。

 

(なんでこんな大きな手術を一度に受けてしまったのだろう・・・)

(分けて受けていたらもう少し苦しみは少なかっただろう・・・)

(手術前に戻れるなら、絶対分けてしなさいと自分に言っただろう)

 

 

(でも、癌の末期の痛みや全身の倦怠感はこんなものではないだろう)

(朝が来ないのではないかと思ってしまう程時間の経過は遅いけど、それでも朝はやってきて、そうすれば少しは楽になるだろう。)

(けれど癌の末期はこんな日が何日も続くのではないか?)

 

(そうだとしたら私には耐えられない、こんな辛さは自他共に我慢強い方だと認めている私でも耐えられない)

(もし今後転移や再発でそのような終末を迎えることになったら、迷わず安楽死を選びたい。)

(日本では認められていないのでスイスに行って安楽死させてもらおう)

 

始めて安楽死を考えた夜。

 

そんな長く苦しい夜もようやく明けてきて、少しづつ強い痛みと身の置き所の無い倦怠感が減りつつあるのが分かりました。

 

とはいえ、病室に戻るのは11時頃。

 

夜が明けてからも11時が待ち遠しい数時間だった。